先日ある専門学校の音楽ビジネスを専攻している学生相手に少しだけ話をしてきた。自分の専門分野である海外興行ビジネスを中心に、J-POPの海外市場での可能性など持論を混ぜながら話した。講義の後半に、自分がプロデューサーとして関わっているシンガーソングライターriroxのMVを事前情報を与えず見せて、どう思ったか、どうしたら売れるのか、という問いを発したのだ。これについては学生の自発的な意見を聞きたかったのと何か面白い意見が聞けたら儲けもの、と考えて実施したのだが、回答は映像に関する意見がほとんどで(絵変わりがしないと飽きる、単調で見ていてきつい云々)、声・歌詞・楽曲に対する意見があまり返ってこなかった。YouTube,TikTokのご時世なのでMVを見せたのだが、これが災いしたかもしれない。もちろん現在(いま)を生きる音楽業界人のはしくれとして、映像がない音楽プロモーションは術として成立しないのは理解している。ただ、MVを宣伝基準としてしまった音楽業界も、それを享受するユーザーも、音楽の本質を誤ってきていないか、という漠然とした危機感を感じた。SNSやスマホがあるおかげで、僕らは当たり前のように楽曲を映像として受け入れているが、楽曲、音楽の本質は、彼や彼女や彼らが歌う「声」、そして伝えるべき歌詞すなわち「メッセージ」、旋律が織りなす「メロディ」の三位一体である。
MVすなわち映像はそれに付随するオマケだ。もちろん重要なオマケではあるけれど、オマケには違いない。
これは、ライブパフォーマンスで考えると腑に落ちると思う。100名に満たないキャパシティのライブハウスでアーティストが表現できる全ては、歌に乗せる歌詞メッセージ、メッセージに感情起伏を起こさせるメロディ、それを奏でるパフォーマーの演奏、そして何よりその曲をふくよかに増幅させる歌声で、それ以上もそれ以下でもない。音響や照明は会場にあるだろうが、映像は流れない前提だ。
こんな発想を固持している僕らの世代は旧態依然のジェネレーションかもしれない。でも、歌がラジオやテレビで流れヒットした昭和の頃は、ほとんどの歌手やアーティストがライブパフォーマンスができて当然だったなあと振り返ると、平成~令和の時代はDTM, SNS, DSPが存在するため楽器が弾けなくても誰でも楽曲制作ができて、配信リリースができる音楽クリエイティブ環境において豊かな時代になった反面、パフォーマンスできないアーティストも生んでいる時代なのだなあと思うのだ。楽曲やアーティストの評価をライブパフォーマンスで行うのが僕のモットーだが、今を生きる若年層にはその感覚がもしかしたら欠如しているのかもしれない。そして、これらは音楽業界が責任の一端を担っているだろうし、コロナ禍でライブハウスやフェスに対して抵抗感を持つライブ未経験者に距離を保たれたままの状況も後押ししているのだと邪推してしまう。デジタルが進みこれからはメタバース、NFT、AIによる楽曲制作の時代へ突入と言われているが、同時にアナログブームやロスレスオーディオ人気、そしてVoicyやオーディオブックなど音声メディアが再び脚光を浴びている。どちらも結構なことだが、今一度、音楽の基本である聴覚を研ぎ澄ませようではないか。
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